プロフィール
はじめまして。独立2年目の24歳、たいようです。
僕は22歳の大学4年生で本格的に起業して、
ネットからの収益だけで80万円の利益を上げたり、
オフラインの事業とネットの知識を掛け合わせて、年商2000万を達成したりと、
ネットビジネスの知識を活かして自分のビジネスを成長させるべく努力しています。
ただ、こんなことを言うと
「なーんだ、元からビジネスセンスがあったんかい」と思われそうなので、
最初にお話ししておきますが、
僕にはビジネスセンスのかけらもありません。w
ネットで全然稼げない時期が2年くらい続きましたし、
その間あっちこっちノウハウを書いまくる
完全なノウハウコレクターでした。笑
そんな僕が、
どんなふうに生きてきて、なぜビジネスを成長させることができたのか。
お話していきたいと思います。
6歳で両親が離婚
僕は栃木県宇都宮市というところで産まれました。
そして、ちょうど僕が6歳になる頃に両親が離婚してからは、
親権は母が持つことになって
埼玉に引っ越してきたんですね。
ただ今思うと、その頃から一気に経済的に苦しくなったんだなーと思ってます。
・美容院にいくお金がないから、半年に一回1000円のカットで済ませる
・メイク道具を買うお金がもったいないから、いつもスッピンで出かける
・外で外食すると高いから、家からおにぎりを持っていく
母はどんな小さいお金も節約して、そのお金を僕を育てるために
惜しみなく使ってくれてました。
確かに2人で暮らすにはあまりにも狭いアパートだったし、
狭い部屋に2枚の布団をギュウギュウに敷いて寝てたんですけど、
それでも楽しい生活を送れてました。
自分で言うのも変な話ですが、こんなにいい親の元に産まれて本当にラッキーだなと思ってます。
勉強に目覚めた中学時代
中学時代は、とにかく遊んでました笑
友達とローラースケートをやったり、
野球部でもないのに、野球をやってみたり。
本当に勉強のべの字もありませんでしたね。w
ただ、そんな僕も
中学2年の終わりが近づくと流石に焦りだしたんですよ。
やっぱりそんだけ勉強をやってこないと、
英語もいよいよ疑問文の作り方が分からなかったし、数学も方程式があやふやってレベルだったし
もうこのままじゃまともな高校は行けないだろうな、、と悟ったんですよね。
だから親に頼んで、苦手な数学だけ塾に通わせてもらうことにしたんです。
で、塾で定期試験の対策をして初めて受けたテスト。
なんと、いきなり数学で95点を取ることに成功したんですね。
単純な僕は
「僕だってやればできるんだ!!」と思えました。
そこからは、受験勉強にのめり込んでいき、
毎日のように塾に通いました。
夏休みは、朝から誰よりも早く自習室に行って
誰よりも遅く自習室を出る。
毎日軽く10時間を超えるほど勉強してましたね。
でも成績は伸びるどころか、落ちていったんです。
定期試験は真剣に勉強したらそこそこ取れるのに、
模試だと全然点数を取れずにいたんですよね。
最後の最後までE判定だったけど、結局本当に行きたかった
地元の進学校を友達2人と一緒に受験しました。
自分の能力に絶望する
そして、迎えた合格発表日。
僕の受験番号はありませんでした。
一緒に受けた2人は受かってて、僕だけが不合格。
やっぱりな。と思ったと同時に、自分の中の何かが失われたいくのが分かりました。
「こんだけ頑張っても、合格できないって相当馬鹿なんだな。
僕って地頭(生まれつきの知能)がすごい悪いんだ」
と確信してしまったんです。
そしてそんなある日、私立の制服の寸法を測りに
入学予定の私立高校に行ったときのこと。
「私立は制服が高いね〜」とふと母がにっこり笑って言ったんですよ。
今思えば、受験に落ちた僕が落ち込まないように
励ましの意味も含めた冗談だったんだと思います。
でもその時の僕は頭がおかしくなっていました。
「うるさい!僕だって一生懸命頑張ったんだよ!
だいたい、母さんがこんな馬鹿な頭に産むから悪いんだよ!
人の努力を笑うな!」
と思いっきり母に怒鳴ってしまったんですよね。
母の悲しそうな顔を思い出すと、
今でも申し訳ない気持ちでいっぱいです。
自分の能力が低いだけなのに、それを全て親のせいにするなんて
それこそ本当の愚か者です。
こうして、自分の能力が低いことだったり、
死ぬ気で頑張っても報われないことを経験して
中学に入学した頃の明るい未来や希望・自信をすっかり失ってしまったんです。
自称新学校のスカした雰囲気
こうして私立の自称進学校に入学した僕ですが、少し冷静になって
いい意味で気持ちを切り替えようとしてました。
「ただでさえ馬鹿なんだから早め早めに勉強しておかないと、いい大学にはいけない。
だったら1年のうちから必死に勉強していい大学に行くんだ!」
そう考えたんです。
だから、大きな本屋に行っては
無駄に難しい参考書を何冊も買って、
勉強を始めたんですね。
でも僕の高校の雰囲気は全く違ってたんです。
「真面目に勉強するのってダサくね?
ノー勉でもある程度の点数は取れるっしょw」
みたいなスカした空気が漂ってたんですね。
なんというか、
“勉強してないのに点数取れることがステータス!”みたいな。
小学生かよって話なんですけど、冗談抜きにクラスの全員がそんな感じでしたね苦笑
だから定期テスト前もギリギリまで勉強したいのに、
友達が邪魔してきて、結局勉強できなかったりとかね。
なんかね、もう周りの環境に流されて…って言うと
ただの言い訳になっちゃうんですけど、
もうだんだん自分の人生がどうでも良くなってきちゃって。
気づいたら、「勉強とか努力とかもう全部どーでもいいや!」
「何にもやらないでとにかく遊ぼう!」という気持ちに変わってしまってたんですよ。
そこからは、モヤモヤした気持ちを抱えながらひたすら堕落した生活を送りました。
大学受験が迫ってきても
英単語帳を持って友達とAKBや乃木坂のライブに行って
案の定全く勉強しないで帰ってきたり。
受験が迫ってくるストレスを紛らわすために、どか食いして
勉強せずに寝たり。
受験前とか過去問解いたりしないといけないのに、点数が取れないことが怖くて
結局志望校の過去問一度も解きませんでしたからね。
もうそこに夢もクソもなかったです。
その瞬間が楽しけりゃいーでしょ。という逃げの思考に変わってましたから。
結局当たり前のように第一志望の早稲田も明治も落ちて、浪人する気力もなかったので
中堅大学に進学することになりました。
100記事のゴミの山
教えてくれたんですね。
普通なら、「え、そんなに稼げるのか!真剣にやってみようかな!」となるのかもしれません。
でも僕の場合は、全然やる気が出なくて、
「バイト代の足しにでもなればいーな…」くらいの
意識で取り組み始めました。
当然ブログのクオリティも低いですよ。
誤字脱字は直さない。(確認すらしてない)
アイキャッチの画像は入れたり入れなかったり。
Wikipediaを薄めたみたいな情報をまとめただけの記事。
そんな状態で100記事ほど更新しました。
結果、その100記事を書いた2年間、
稼げた金額はたったの500円。
まあ、当たり前ですよね。
でもブライドだけは高かった僕は
あろうことか稼げてもいないのに、周りの大学生を見下してました。
「僕は君らとは違うんだ。起業してんだぜ。
今稼げてなくたって、いつかは稼げるさ」
と必死に自分に言い聞かせながら、
カフェに行っては自慢げにパソコンをカタカタ叩く毎日。
もう心の中はボロボロでした。
ああ、僕ってホントに何をやっても上手くいかないんだな…
そんな負のスパイラルにハマってしまったんです。
くも膜下出血で母が倒れる
そんな堕落した毎日を送っていたある日、
僕がいつものようにカフェでパソコンを叩いている時のことでした。
いきなり見知らぬ電話番号から電話がかかってきたんですよ。
電話の先から聞こえてくるその言葉を聞いて、
息が止まるほど驚きました。
「たいようさんの携帯で間違い無いですか?
落ち着いて聞いてください。〇〇さん(僕の母)が倒れました。
詳しいことはまだわかっていませんが、まだお母さん意識ありますから電話代わりますね」
それは、倒れた母を救急搬送している
救急隊員からの連絡だったんです。
続いて今にも消え入りそうな母さんの声が聞こえました。
「母さんただの貧血だから大丈夫よ。心配しないでね…」
母は”くも膜下出血”と言う脳の動脈瘤が破裂して
起きる大病に倒れたのでした。
僕は涙が止まりませんでした。
思えば、僕がまだ6歳ぐらいの頃、
小さなアパートで在庫整理をしていたとき
母が
「頭が割れるように痛いの…母さんもう死んじゃうかもしれない。」
と言いながら身体が辛い中必死に仕事をしていたのを思い出したんです。
おそらくその頃から、母の脳には動脈瘤が出来てたんです。
でもその時には
動脈瘤が破裂することがなかったから、母さんは死ぬことがなかった。
だから今回倒れるまで、普通に生きてこれたんです。
これを知ったとき、本当に自分を責めました。
だって、
脳にある動脈瘤なんて、
脳ドックを定期的に受けていれば、
絶対発見できるものなんですよ。
お金がないせいで母検査すら受けられなかった。
全部お金のせい、つまり僕のせいなんです。
話を戻すと、
もう母さんと会えないかもしれない…
そんな最悪の事態が頭をよぎりつつも、
すぐにパソコンを畳んでカフェを飛び出しました。
そして病院に着くと、
目の前のベットに横たわって、半開きのうつろな目でこちらを見ている
母さんを前にして、初めて自分のゴミクズみたいな人生を後悔したんです。
なんでもっとバイトしてお金を渡さなかったのか。
なんでもっと真剣に大学受験に取り組まなかったのか。
なんで真剣にネットビジネスに取り組まなかったのか。
母さんは病気で倒れるほど仕事を頑張ってきた。
僕を養うため、貧乏で惨めな想いをさせないように、と泥水をすすって
ひとりで僕を育ててきた。
それなのに、僕と言えば何をするにもダラダラと物事に取り組んで、何一つ結果を出せていない。
今までで頑張ったこと、成し遂げたことがない自分をボコボコにしたいほど、自分のことが嫌いになっていました。
手術が成功、ビジネスと向き合う
結局、母の手術は大成功。
母は奇跡的に助かり、家に戻ってくることができたんです。
今までの人生でこれほど嬉しいことはなかった。
本当に本当に嬉しかったです。
ただ、現実的な問題として
母の収入は正真正銘ゼロになりました。
経済的な問題が出てきたのです。
当然、後遺症もあるので
今までみたいに仕事することも、アルバイトに出ることもできない。
そして、僕はポンコツな大学生。なんのスキルもない。
「それなら外に出て働けばいいじゃないか?」
と思うかもしれないですね。
でもいつ再発するか分からない中で、母を家に置いて
働きにいくなんてとても考えられなかったんです。
僕が仕事をしている間に、またあの日みたいに
寝息を立てたようにスースー小さないびきをかいて、そのまま帰らぬ人になってしまうかもしれない。
そんなことを考えていたら、
普通に就職して働く選択肢はなくなってました。
気がついたら、目を血眼にして
ブログで稼ぐスクールを探している自分がいたんです。
そして、あるYoutubeの動画で
「年収1億円で自由に暮らす起業家」みたいな動画を見つけて、
その先生にビジネスを教えてもらうことを決めたのです。
思考が変わって人生が変わった
僕は今まで何をやらせても上手くいきませんでした。
2回の受験どちらも不合格
カフェのアルバイトでも仕事ができない
ブログでも500円しか稼げない
成功体験がほとんどありませんでした。
でも先生に
徹底的にビジネスで成功するための考え方や、具体的なノウハウを
頭に叩きこまれてからは
成功者や上手くいく人の考え方が段々と分かってきたんです。
実際そこからは自分でも拍子抜けするほど
あっさり結果が出るようになりました。
今まで500円も稼げなかったのに、
先生から指導いただいて初月で3万の収益。
5ヶ月後には50万。
1年後にはネットからの収益だけで80万と
どんどん収益を伸ばすことに成功したんですよ。
また、オフラインの事業にも魅力を感じたので
ネットビジネスの知識を応用して、実業にも挑戦してみたら、
こっちも初月から30万の売り上げが出て、
初年度で2000万の年商を達成することができたんです。
その時悟ったんです。
頭がいいとか、ビジネスのセンスって
全部後天的に手に入れることができるんだなって。
正直、今でも
自分の腐った脳ミソを
新しくインストールした別の脳ミソに切り替える感覚
ってあるんですよ。
で、その感覚が新しい知識を学ぶたびに
薄まっているのが分かるから、明らかにセンスじゃないなと確信できるんですね。
新しい思考を脳ミソにインストールして、そこから様々な価値を生み出していく。
この感覚を掴んでから、何もかも上手くいくようになったんです。
働かない人生。~ 不労人生のススメ~
ここまで読んでいただきありがとうございます。
最後に、僕の今の発信理念をお話させてください。
僕は「働かない人生」という発信理念を掲げてます。
こんなドストレートな理念を掲げると、
とんでもなく意識とレベルの低い目標だなと思うかもしれません笑
(まあ実際、僕は意識低いですけどね)
でも必死に働いてもお金に縛られ続けて、ついには大病して倒れてしまった
母を間近でみていて思ったんです。
人生には限りがある。
ならば、身体が元気なうちに収入が自動で入る仕組みを作ってしまって、
あとはなるべくお金のために働かない自由な人生を生きようと。
やっぱり
60 70と歳を重ねてからやっとこ自由になっても、
もう身体にはガタがきているし、ななかな人生を楽しめないと思うんです。
だからこそ、最初に頑張ってお金が入る仕組みを作る。
そして、お金のために働かない不労人生を生きられるような人が
少しでも増えて欲しい。
そんな思いで情報発信してます。
もしここまで読んできて、僕のことやビジネスのことに興味を持ってもらえたら
ぜひ無料メルマガに登録してもらえたら嬉しいです。
最後まで読んでくれてありがとうございました。